【二〇二五年 杏】
「さて、じゃあ話を聞こうか」
私がケーキを食べ終え、紅茶をひと口飲んだタイミングで、松下さんが穏やかにそう言った。
ああ、そうだ。
私は話を聞いてもらいに、ここに来たんだった。 あまりの居心地の良さに、つい忘れかけていた。それに……なんだか緊張してる。
どこから話せばいいんだろう。私が少し躊躇っていると、
「ゆっくりでいいよ」
そう言って、松下さんは優しく微笑んだ。
「杏さんが話したいと思ったことを、話したいだけ話せばいい。焦らなくていいんだ」
その穏やかな声に、私の緊張もふっと緩んでいく。
「……はい」
一度、大きく深呼吸してから、私はゆっくりと話し始めた。
そもそも、松下さんには修司のことを話したことはなかった。 だから、私は最初から話すことにした。修司と初めて出会った日のこと。
それから、少しずつ距離が縮まっていって、お互いに惹かれ合い、付き合うようになった。
私にとって、どれほど彼が大切な存在だったのかということ。そして、あの事件が起こって――それでも修司は、私を支え続けようとしてくれていた。
でも、私はある真実を知ってしまった。
そのせいで修司と向き合えなくなり、そして……自分から彼を遠ざけてしまったこと。ずっと、忘れられなかった。
忘れようとすればするほど、彼の存在が自分の中で大きくなってしまって。 そのことで、すごく苦しんでいた。なのに、また修司が私の目の前に現れて。私はどうしたらいいのかわからなくなっていること。
私は、事件の本当の首謀者が誰だったのか、その部分だけはあえて伏せた。
松下さんにそこまで話すべきじゃない。そう、自分の中で線を引いたから。でも、それ以外は、包み隠さずに打ち明けた。
きっと、この人ならすべてを受け止めてくれる、そう思えたから。
そ
【二〇二五年 杏】 「どうぞ……」 私がそう言うと、雅也は嬉しそうに笑って、隣の席に腰を下ろした。 「いやあ、先ほどからあなたのことが気になっていて、つい声をかけてしまいました」 「そう……ですか」 さっきまでほんのり感じていた酔いは、あっという間に引いてしまった。 私は、目の前に座ったその男をじっと見つめる。 ――月ヶ瀬雅也。 父の敵。 決して忘れられない、いや、忘れてはいけない男。 胸の奥がじくじくと痛む。 あの時の感情が、瞬く間に甦る。 私がどんな表情をしていたのか、自分ではわからない。 でも、きっと……目には憎悪が滲んでいたと思う。 私の異様な空気を察したのか、雅也は少し焦ったように眉を下げた。「申し訳ない。いきなり声をかけて、気を悪くされましたよね? 本当にすみません。でも……ここで声をかけなければ、きっともう二度とお会いできないと思って。 もしよろしければ、一杯だけ、お付き合いいただけませんか?」 そう言って、潤んだような瞳でこちらを見つめてくる。 なに……? まさか、私に気づいてないの? 私は目の前の男を冷静に見据える。 確かに、会ったのは十年前。 あの頃は、私はまだ子どもで、化粧っ気もないし、格好にもそれほど気を遣っていなかった。 こいつからみたら、ただの小娘だったのだろう。 眼中になかった……ということか。 覚えていなくても、不思議じゃない。 ……でも、それにしても―― まさかこいつ、私を口説いてる? 雅也の態度から、とんでもない推測に至ってしまった私は内心笑ってしまう。 まさか、そんなこと。 でも、確かめてみるか……。 動揺を隠しつつ、私は雅也に微笑み返す。「いえ、こんな風に声をかけられたことがなかったもので。 ちょっと驚いてしまいました。
【二〇二五年 杏】 松下さんのお屋敷を出た帰り道、私は一人で街を歩いていた。 行き交う人々の中に、手をつないで歩くカップルが何組もいる。 その幸せそうな笑顔に、思わずため息がこぼれそうになる。 ……いいなあ。 そんな気持ちが顔に出そうで、私は慌てて首を小さく振った。「だめ、だめ、暗いぞ自分……」 気持ちを切り替えるようにそう呟くと、私はふと思い立ったように、足をある場所へ向けた。 そこは、雑居ビルの一角にひっそりと佇む、小さなおしゃれなバーだった。 店の名前は『エル』。 知る人ぞ知る、隠れ家的なバーだ。 場所も目立たないし、看板も控えめだけど、女性客には密かに人気がある。 その理由のひとつは、店を切り盛りしているバーテンダー……伊藤(いとう)くんの存在だった。 私は、数年前、ふらりとこの店に立ち寄ったのがきっかけで、ちょくちょく通うようになった。 仕事帰り、疲れた日、落ち込んだ日、何かから逃げ出したい夜――。 特に、修司のことを思い出して心がざわつくときは、この店にふらっと立ち寄ることが多かった。 新には、ここへ来ていることを話していない。 こういう場所へ足を運んでいることを知れば、またあの子は心配をする。 理由も理由だしね……。 とにかく、これ以上負担をかけたくなかった。 ただ静かに、誰にも気づかれず、ひとりで過ごしたい。 そんなとき、私はここに足を運ぶのだ。 この店は、私にとって、心安らげる場所のひとつ。 いつものように、カウンター席の一角に腰を下ろす。 そこはもう私の“指定席”のようなもので、店に入ると何も言わずに席が空けられていることが多い。 そして、これまたいつものお気に入りのカクテルを注文する。 数杯をゆっくり楽しんでいるうちに、体がほんのりと熱を帯びてくる。 頬がぽわんと火照って、心地よい酔いが巡る。
【二〇二五年 杏】「そうか……それは、つらかったね」 松下さんは、ゆっくりと目を閉じてから、静かに言葉を紡いだ。「よく、ここまで頑張った。頑張ったね」 その声は、深く温かく、まるで傷口にそっと手を当ててくれるようだった。 松下さんが、ゆっくりと身を乗り出してくる。 そして、そっと腕を伸ばし、私の肩をやさしく抱いた。 まるで、大切なものを包み込むように。 次の瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れ出す。 「……ふ、ひっ……うぅ……」 声にならない嗚咽がこぼれた。 張り詰めていた心の糸が、ぷつんと音を立てて切れ、 私はただ、子どものように松下さんにすがりついて泣いた。 恥ずかしいとか、思わなかった。 ただ、すべてを投げ出し、声をあげて泣いた。 松下さんは、何も言わず、ただ私の背中をゆっくりと撫で続けてくれた。 その大きな手は、とても、あたたかかった。 どれくらいそうしていたのだろう。 涙が少し落ち着いた頃、いつの間にか目の前に新しい紅茶のカップが置かれていた。 立ち昇る湯気が、ほのかにアールグレイの香りを運んでくる。 メイドさんがそっと微笑みながら一礼し、静かに部屋を後にしていくのが見えた。「紅茶を飲みなさい」 松下さんが優しく微笑む。「温かな飲み物は、気持ちを和らげてくれるからね」 私は黙って小さくうなずき、紅茶にそっと口をつけた。 あたたかな液体が喉を通り、冷えた胸の奥をゆっくりと満たしていく。 それだけで、張りつめていた心が、少しずつほぐれていくのを感じた。 松下さんが、ふっと息をつく。 その気配に顔を上げると、まっすぐに見つめるその瞳と視線が重なる。「それで……杏さんは、どうしたいんだい?」 松下さんの問いかけは、まるで心の奥にそっと触れてくるようだった。「……え?」
【二〇二五年 杏】「さて、じゃあ話を聞こうか」 私がケーキを食べ終え、紅茶をひと口飲んだタイミングで、松下さんが穏やかにそう言った。 ああ、そうだ。 私は話を聞いてもらいに、ここに来たんだった。 あまりの居心地の良さに、つい忘れかけていた。 それに……なんだか緊張してる。 どこから話せばいいんだろう。 私が少し躊躇っていると、「ゆっくりでいいよ」 そう言って、松下さんは優しく微笑んだ。「杏さんが話したいと思ったことを、話したいだけ話せばいい。焦らなくていいんだ」 その穏やかな声に、私の緊張もふっと緩んでいく。「……はい」 一度、大きく深呼吸してから、私はゆっくりと話し始めた。 そもそも、松下さんには修司のことを話したことはなかった。 だから、私は最初から話すことにした。 修司と初めて出会った日のこと。 それから、少しずつ距離が縮まっていって、お互いに惹かれ合い、付き合うようになった。 私にとって、どれほど彼が大切な存在だったのかということ。 そして、あの事件が起こって――それでも修司は、私を支え続けようとしてくれていた。 でも、私はある真実を知ってしまった。 そのせいで修司と向き合えなくなり、そして……自分から彼を遠ざけてしまったこと。 ずっと、忘れられなかった。 忘れようとすればするほど、彼の存在が自分の中で大きくなってしまって。 そのことで、すごく苦しんでいた。 なのに、また修司が私の目の前に現れて。私はどうしたらいいのかわからなくなっていること。 私は、事件の本当の首謀者が誰だったのか、その部分だけはあえて伏せた。 松下さんにそこまで話すべきじゃない。そう、自分の中で線を引いたから。 でも、それ以外は、包み隠さずに打ち明けた。 きっと、この人ならすべてを受け止めてくれる、そう思えたから。 そ
【二〇二五年 杏】 ゆっくりとチャイムを鳴らすと、すぐに門が開き、背の高い執事が出迎えてくれた。 礼儀正しく、でもどこか親しみのこもったその態度に、ほんの少し気持ちが和らぐ。 案内されて、私はお屋敷の奥にある応接間へと向かった。 執事が軽く一礼し、部屋の前で控えていたメイドに小さく合図を送る。 メイドは優しく微笑み、扉を開けて私を中へと案内した。 深いソファに腰を下ろす。 何度も来たはずなのに、ここへ来るたび、やっぱり緊張してしまう。 ドラマやアニメに出てきそうな、まるで夢のような立派な屋敷。 見上げるほど高い天井に、どこまでも大きな窓。 どこを見ても、ため息が出るほど美しく整えられた空間。 けれど、不思議と落ち着く。 なぜだろう、と考えるまでもなく、答えはわかっていた。 ここは、松下さんの家だからだ。 どこまでも柔らかく、優しい空気が漂っている。 同じように立派だった修司の家とは、何かが決定的に違う。 あそこは、冷たく、よそよそしく、ギスギスしていた。 どこにも安らぎはなくて、心が休まる場所がなかった。 ――そんな家で、修司はずっと暮らしていたんだ。 そう思うと、胸が少し痛む。 はっとして、頭を振った。 また、修司のことを考えてしまっていた。 考えないって決めたはずなのに。 気を取り直して顔を上げた瞬間、扉が静かに開いて、メイドさんが入ってきた。 静かに台車を押して、私の目の前にぴたりと止まる。 そして、慣れた手つきで紅茶とケーキを並べ、やわらかな微笑みを浮かべて去っていった。 その所作も、無駄がなくて、それでいてどこか優しさを感じさせるものだった。 この家で働く人たちは、みんな、どこか温かい。 それはきっと、松下さんの人柄が作り出している空気なのだろう。 部屋は再び静かになった。 少しして、ガチャリと扉が開き、松
【二〇二五年 杏】 それから、さらに四年の月日が流れていった。 私と新の暮らしは穏やかで、静かで、何より幸せだった。 二人で過ごす、普通で、特別でもなんでもない毎日。 それが、どれほどかけがえのないものかを、私たちは誰よりも知っていた。 そうそう、時々、松下さんからの手紙も届いていた。 きれいな封筒に丁寧な文字。 届くたびに、新と二人で並んで座って、楽しみに開封する。 お返事を書いたあとは、またお屋敷に招待されて、お茶を飲みながら松下さんとたわいない話をして。 こんな日々が、いつまでも続くものだと、信じて疑わなかった。 もう二度と、悲しいことも、苦しいことも、起こらないんだって。 過去は過去、私たちは乗り越えたんだって、そう思ってた。 ――でも、現実は違った。 そんな虫のいい話はなかった。 神様は、やっぱり意地悪だ。 「まだ終わっていない」と言わんばかりに、過去は私を手放してはくれなかった。 あの頃の苦しみが、置いてきたはずの痛みが、またもや私を追いかけてくる。 せっかく、忘れられる時間が少しずつ増えてきたのに。 あんなに努力して、必死で忘れようとしてきたのに。 ……突然、彼は現れた。 月ヶ瀬修司――。 できることなら、再会なんてしたくなかった。 たとえそれが本心じゃなくても、そう思い込もうとした。 私が私に嘘をつくのは、たったひとつの、小さな幸せを守るため。 なのに……。 どうして、あなたは私の前に現れるの? どうして、私の心をかき乱すの? °˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖°°˖✧✧˖° あの日、会社の屋上で修司と言い争ってから、私の心はずっと荒れたままだった。 気持ちはぐらぐらと揺れ、どこへ向かえばいいのかわからなくなる。 一人では抱えきれなくて、苦し